さくらんぼと山形県 どうして有名になったのか

さくらんぼと山形県 どうして有名になったのか

こちらで農業をやっているとき、市場で買い物をしているとき、なにか特産品は何かないのかなとよく考えます。

激しいマーケット競争のなかで他と差別化できる生産物を生み出すことは大切です。
それが自分たちのある種のブランドであり、長く続く文化へと成長させ得ることができるからです。

僕の地元山形県はさくらんぼの生産量が日本一です。
全国の90%を占める規模を誇り、品種も十種類近く存在します。

しかしその繁栄に至るまでの理由や背景を学んだことはありません。

どういった経緯で「山形県=さくらんぼ」の地位を確立したのか知りたくなりました。
今回は山形県がなぜさくらんぼで有名になったのか、その背景に迫ります。

西洋文化の流入

まずは時代背景からご紹介します。

散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする

明治初期の西洋文化流入を象徴するフレーズですね。

江戸幕府は1853年にペリーが来航して以来、外国諸国との繋がりを持つようになります。

しかしその内容は政権を揺るがすほどの不待遇なものでした。

日米和親条約を皮切りに、日米安全修好通商条約といった日本に不利益を被る協定を結ばれます。
徐々にその余波が住民にも広がり、ついに討幕・大政奉還という形で江戸幕府は幕を閉じました。

その後明治時代に移り変わり、多くの文化が流入し始めたのです。

さくらんぼの苗木が届く

日本にサクランボがやってきたのは明治元年,1868年のことです。

ドイツ人のガルトネルが北海道に6本のさくらんぼを植えたとされています。
さらに北海道を開拓する人達は米国から25種類の苗木を輸入しこれを東京で育てます。

その後それら苗木を全国に配りましたが、東北や北海道を除いては上手く着果できなかったようです。
この中に今も活躍しているナポレオンや高砂などの品種も。

自然災害と試験栽培

山形県を除く地域ではほとんどが自然災害で失敗したようです。
冷害・梅雨・台風・霜害などが挙げられます。

被害が比較的少ない山形県だけが実績を上げることができたのですが、
時代背景的には米、穀物などの基礎食料が優先されていたようです。

果物では梨やりんごなどの大衆消費が当時は重要であり、嗜好品はそこまで需要が無かった時代でした。

さくらんぼが山形にやってきたのは明治8年1875年。
洋ナシ・りんご・ぶどうの苗と一緒に混じって苗木が入ってきました。

1876年には初代山形県知事・三島通庸が、北海道からさくらんぼの苗木を取り寄せます。
1878年には試験場をつくり育て、栽培拡大を図ったようです。

山形の地形が活かされる

霜害…蕾が枯れてしまい着果しなくなる

梅雨…サクランボの実が雨に濡れて、身が割れたり腐ったりし、食べれなくなる(雨除けハウスが開発)

台風被害…サクランボの木は根が浅く強風に弱い性質がある

これらの問題を山形の地形がカバーしてくれたようです

霜害…局地的な部分はあるが、大規模ではない

梅雨…村山盆地は周囲が高い山に囲まれた盆地であり、降水量が県内でも少ない

台風被害…同上の理由で風も山々によって守られている

山々に囲まれた盆地の特性

その気候から次のような特徴としてまとめることができると思います。

①梅雨時期の降雨量は全国的にかなり少ない

②盆地なので山々に囲まれ、台風の被害を受けづらい

③夏は猛暑であり、夏が熱いと花芽が充実し翌年の着果が良くなる

④積雪が多く、寒い冬を越すことで実を結びつけることができる

新しいことへの挑戦と環境適応

時代背景から始まりその経緯を読み解くと、試行錯誤と環境の適合性が要因であったように読み取れます。

始めこそ需要は無かったものの新しいことに挑戦した。
そのなかで山形の環境と上手く適応したものがさくらんぼであった。そこから品種改良やブランド化を推し進めた結果、いまの特産品としてのさくらんぼがある。

こう考えると新しい特産品の情報や試作品を提供するというのは、一つの良い方法なのかもしれません。
小規模で始めてみて、ダメなら別のなにかを試す。上手くいったらもう少し規模を広めてみる。

そんな方法もいいのかなと思いました。

そして地元山形のさくらんぼ文化への理解が少し深まりました。

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ABOUTこの記事をかいた人

▷山形県天童市出身▶︎青年海外協力隊員 ▷jocv 2018-2 コミュニティ開発(農作物栽培×地域活性化) ▶︎大学卒業後→経理財務→焼肉屋→現在▷心地よい生活を求めライフスタイル探求中▶︎料理とお菓子作り好き▷色んなものを疑いながら日々生活中