“不幸を知らないと幸福を認識できない”というのは真理だと思う

おはようございます。

タイトルが少し重々しいのですが、決して病んでいるわけではありません。将来や過去を振り返っているうちにそんなことを思ったのです。

今回は幸福と不幸について綴ります。

 

“不幸を知らないと幸福を認識できない”というのは真理だと思う

最近哲学に関係する書籍を読んでいるのですが、「答えは過去にある」という主旨の内容をよく目にします。

同じ失敗を繰り返さない、同じ轍を踏まないようにするため。また現状が過去と比較して、どんな状態であるのかを考える素材にするためです。

そこで現在と過去、どのような社会であるかを実際に比較してみます。

 

どのように生き方も許容される現代

いまの日本は極めて異形です。

戦争もなく、表現の自由が保障され、社会制度もやり過ぎなほど整ってる。絶妙なバランスです。

つまり個人が自由に、なんでもできる技術と環境がほぼ整っていると言えます。”ほぼ”と表現したのは、閉鎖的な雰囲気や根性論的な理解しがたい習慣も残っていることを表現するためです。

極論、前科が付くようなことをしない限り、ほぼ何をしたって生きていけます。再起不能になるような絶望や不幸というのも起きません。なぜなら前述した通り、保証する制度や環境が整っているからです。

 

異なる二つを比較することで物事を判断できる

なので日本の環境下で生きているうちは、そのほとんどが客観的には”幸せ”として捉えられるものばかりです。

それは日本以外の国に足を踏み入れ、人々と出会ってきた経験からもそう主張できます。他国に住む人々の現状と比較することで、相対的にそうだと僕は判断します。

 

もう少し規模を小さくして考えてみます。

僕は山形県出身で、高校卒業する18歳までその魅力や現状を考える機会はありませんでした。いくら先生に山形での就職もいいぞと言われても、何がいいのかどこがいいのか、どういいのかが全く分かりませんでした。

しかし大学4年間を青森で過ごし、その後東京で4年働いて、ようやく気付きました。いかに地元が食に恵まれ、自然に恵まれ、人に恵まれ、どれほど素晴らしい場所であるかを。

 

つまり経験に基づき異なる二つの事象を比較することで、俯瞰視できたのです。

みんな異なる何かを比較し、それを相対的に捉えて、考察を深めるはず。意識的にしろ無意識的にしろ、人は比べながら物事を判断しています。

 

不幸の度合いが幸福度をより引き上げる

では幸福と相対するものはなんでしょうか。比較する対象は何でしょうか。

それは不幸です。

嫌な思いをすることで、幸福な思い出を引き出すことができます。前者の規模が大きければ大きいほど、幸福をより感じやすい状態になるはず。だから不幸を経験しなければ幸福を理解することは難しいのです。

 

極端な例を挙げます。

戦争を知らない子どもたちと知っている子どもたち、双方の人生観は全く違います。

一方は毎日美味しいご飯を食べ、綺麗なものに囲まれ、行儀よく勉強する。もう一方は毎日爆撃を警戒し、テロに備え、穀物類や水だけで腹を満たす。

ただこうした人々は実際にいるが、想像しにくい。特に10代20代は戦時中などの話を聞く機会も少なく、こうした想像はしにくいでしょう。

つまり毎日ご飯を食べることができるという幸せを感じるには、それが出来ていない存在を知る必要があるということです。

お互いに相手の境遇を知ってこそ、自身のた立ち位置を感じることができるのでは無いでしょうか。

 

一歩引いて現状を認識するクセをつくる

一度きりの人生、できれば幸せなことが多い方が僕は嬉しいです。その為には普段から幸福を認識する必要があります。

僕は一歩引いて現状を分析するクセをつけています。自分が辛いなあと思うとき、なにくそと思うとき、一度無感情になってみたりですね。

その時々の心情や感情はあっていいけれど、それで自暴自棄にならない様にする。これまでの経験を振返り、自分がいまどんな人生を送っているかを俯瞰視する。そうすると大体のことは解決するのでオススメです。

自暴自棄になってしまう、仕事が嫌、人間関係にうんざりしている。それぞれ思う不幸なことはあると思いますが、その経験はより幸せになる為の良い材料になるのかもしれない。

そう考えると少し楽になると思います。

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▷山形県天童市出身▶︎青年海外協力隊員 ▷jocv 2018-2 コミュニティ開発(農作物栽培×地域活性化) ▶︎大学卒業後→経理財務→焼肉屋→現在▷心地よい生活を求めライフスタイル探求中▶︎料理とお菓子作り好き▷色んなものを疑いながら日々生活中