写真と文章 それぞれ魅力について書いてみた

おはようございます。完全復活です。

先日調整員がお菓子をもってきてくれたので朝から食べます。

普段は淹れない少しお高めの茶葉を使用。
ケリチョと呼ばれる地域があり、ケニアで有名な茶畑とその加工工場がある都市です。

近々遊びに行こうかな。

ここだけ切り取ると全然ケニアだと感じない。でも外にでると牛や鶏がしっかりお出迎えしてくれます。

 

 

写真と文章 それぞれの魅力

最近写真を撮る時間を確保していない。今日は午後から写真撮影。動物(その辺にいる家畜)と物撮り(野菜)。文章を書くこともこっちに来てから続けている。

 

周りに写真大好き人間と文章大好き人間がいるので、彼らに楽しさを教えてもらったからかもしれない。

それぞれ情報を伝えるうえで有効な手法で、何よりやってみると楽しい。今回は写真と文章の魅力について綴ってみた。

 

写真

一眼レフとその周りの器機を購入して1年ちょっと。技術面は全然初心者だけれど、撮ること自体の楽しさやそこから見えてくる別の楽しさや視点もまた楽しい。

個人的にはこんなところがいいなと思う。

 

瞬時に得られる情報量の多さとリアリティ

そのまんまです。見た瞬間に鳥肌が立ったり、心が沈んでしまったり、脳内処理できないような感情に陥ったり。写真は瞬発的に伝える情報量が詰まった表現方法の一つかなと。

人になにかを伝えるとき、言葉では表現できないことがある。少なくとも僕はそう。

 

例えばこっちで路上を歩いているときのお話し。

ご老人が特殊な三輪車のようなもので路上を進んでいる光景を目にすることがある。彼は両足が無く、両手でそのペダルを漕ぎながら前に進む。大雨が降った時には水たまりに溜まった泥水を350mlの空瓶に詰めそれを飲む。彼の目は充血しており、汗をかきながらどこかへ歩みを進める。

僕なりに文字に起こすとこんな感じだが、実際に目の当たりにすると思わず唾を飲むほど苦しくなる。そこに現実(リアル)が加わることで、そのメッセージ性は別物に変わる。

それほど情報量が多く、同時にリアリティを感じさせることができる。

 

芸術的側面

写真は芸術的側面もあるように感じる。

22歳の頃ボリビアのウユニ塩湖にいったとき、現地のツアーガイドがこんなことを言っていた。

このウユニ塩湖をみて君は綺麗だな美しいなと感じているだろうね。でも地元民からすればここは貴重なリチウム資源が眠っている場所で、これを加工すればリチウム電池や関連製品の輸出に繋がり、結果として国益につながる。ただその主権争いを中国やアメリカが繰り広げ、政府や地元民はその波に巻き込まれている現状もあるんだ。その発端がこのウユニ塩湖でもあるんだ。

5年前とはいえ鮮明に夜空の下で伝えられたこの内容を覚えている。

つまり鏡張りの綺麗な写真をみれば自然と「綺麗」「かわいい」「神秘的」という感情に引き込めるけれど、普段世間にはみせない採掘器機や大手企業の現場指揮官のヘルメットなどがそこに加わるだけで「環境破壊」「資源の搾取」「国益争い」などの評価が返ってくるだろう。

見せ方ひとつで受け手の心情を豊かにさせるという点では芸術的かな、などと思った。

 

会話する,撮る,見る,ぜんぶ楽しい

これは行動自体に魅力を感じる、ということである。

某カメラ好きの友人たちと出国前に星を撮りに行ったエピソードをちょこっとご紹介。

まずお昼に埼玉県川越駅前で集合。鈴木の思い付きに付き合ってもらいカフェでティータイムを楽しみながらカメラトーク。僕にとって初めてのカメラトークは何もかも新鮮で楽しかった。触ったことのない機材、撮るときのポイント、明暗やカメラの仕組み、一丸レフとミラーレスの違い。そこから展開されるSNS上での皮肉やブラックジョーク、専門的なツッコミがまたクセになる。

なによりそうした友人と話すということ自体が楽しい。その人の考え方や生き方を経験談を交えながら理解できる。カメラというテーマで集ったものの(僕の場合”アルバイト先”というカテゴリーも入ってマス)、それ以上の話題を共有できる空間がそこにはあった。

 

予算の関係で簡単に始められる人が少ないかもしれないけれど、逆にそれだけ熱意や想いをもった人がカメラを楽しんでいると言い換えることもできると思うので、そういった点でもカメラを始めてよかったなと僕は思う。

 

文章

文章を書くことはブログを始めてから本格的になった。

大学時代は「大学生×青森×お弁当男子」という感じのブログカテゴリーでランクングYahoo上位に食い込んだこともあるくらい。それくらい継続するモチベーションもあり、なによりこうして文章を書くこと自体が好きだ。

 

コミュニケーションに役立つ

僕は人と話をするのが好きだ。あまり自発的に話をすることはないけれど、話を聞いたり議論することが好き。それを通じてそのひとの経験や経歴を知りよりいい関係を築ける。さらには何か面白いこと、ワクワクすることに繋がるからだ。

共感を得やすいのは恋愛かな。
各々好きになる理由は色々あると思いますが、(ここでお金などが出てくるとこの理論崩壊)少なくとも初めは言葉を通わせて相手を知ろうとするはず。すると途中で言葉を選んだり、より相手が喜ぶようにするにはどうしようかと悩みだす。

そこで表現や愛の伝え方を学ぶ。(書いてて自分で笑ってしまいそう)

ちなみに鈴木は百人一首のこの唄が大好きです
『これやこの 住くもかへるも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関』蝉丸
【現代語訳】これがあの京都から出発する人も都へ帰ってくる人も、顔を知る人であってもそうでない人も、逢っては別れ、別れては巡り逢う、逢坂の関所なのだなあ

いいですね、これ以上ない切なさ。これは極端な例ですが、人に想いを伝えたりするうえで、文章をつくることができるというのは良いですね。

※社会人のとき上司が突然いなくなり、急に主任に昇格し、仕事量がめちゃくちゃ増えた頃に旅行先にて。

 

 

自分らしさを探せる

上の話をもう少し掘り下げる。

人になにかを伝えるとき、それが自分に関することであればなおさら、文章を紡ぐのが難しい。

なぜなら自身がどんな性格でなにをやってきたかをすぐに説明できる人は少ないからだ。

実績、性格、趣味、現在やっていること、今後の夢。別になくてもいいけれど、あった方が人にはよく伝わりやすい。自分が何者で、何ができて、どんな感情を相手に抱いているのか、これを伝えるために自分を掘り下げる必要がある。

これを纏めるのは時間がかかる。作業が思い出巡りになってしまいがちで難しい。客観的な目でどんな心情で、どうして自分がそれをやったのか、そうしたヒントを過去から見つけ出す。

それが自分らしさの肝になり、それを人に伝えると共感を得やすい。

練習の意味でもこうして文字に起こすなり、構成を考えるというのは個人的にはいいと思う。

 

書く楽しさ

小学校のころ図工が僕は大好きだった。段ボールや粘土で物を作り、色を塗り、タイトルをつけ、先生や友達に見てもらうのが大好きだった。評価されたかったのかもしれないけれど、それ以上に自分で物を作る楽しさを全力で感じていた。

考えやアイディアを目に見える形にして表現する。周りからの評価なんて気にせず作ることが楽しかった。

 

いま文章を書いているのは、たぶんこれに近い考えだ。

身の回りの疑問や問題を、自身の経験や体験をもとに再構築し、自分なりの独自性をもって表現する。物ではないけれど、自身で再構築して物事を表現する、この行為自体を楽しんでいるんだと思う。

SNSの発達でその界隈は乱雑しているけれど、僕は文章をそんな風に楽しみたいなと思っている。

 

どちらも伝えたい相手があってこそ

独りよがりな発信もいいと思う。愚痴のはけ口、頭を整理するためのアウトプット、とりあえず声をあげてみる。どれも自身の目的のためならそれは正しい使い方。

だけれど僕は写真や文章は伝えたい人にさえ伝わればいいと思っている。(不特定多数の人がみるので注意しなければいけない点はあるけれど)

みんなに同じように響く写真や文章はなく、いくら工夫しても相手の捉え方でいくらでも解釈は変わってしまう。

なので伝えたい相手とその内容さえ定めれば、あとは勝手に解釈してくれればいいと思っている。

#ケニア #青年海外協力隊 #ブログ #コミュニティ開発 #山形男子

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ABOUTこの記事をかいた人

▷山形県天童市出身▶︎青年海外協力隊員 ▷jocv 2018-2 コミュニティ開発(農作物栽培×地域活性化) ▶︎大学卒業後→経理財務→焼肉屋→現在▷心地よい生活を求めライフスタイル探求中▶︎料理とお菓子作り好き▷色んなものを疑いながら日々生活中